緑島(リュイタオ)の歴史について
火山の始まり
緑島はもともと鮮新世と更新世の時代の火山噴火によって形成されました。この島は火山のソレアイト、安山岩、火山の爆発物の破片で構成されており、面積は15 km2です。実際には、島の深さは約25キロメートル(または16マイル)であり、海洋地殻の下方にあるルソン火山のマグマ弧の一部として形成されました。安山岩には輝石と角閃石の結晶が含まれており、目に見える特徴を持っています。島の岩石の地球化学は、カリウム、ストロンチウム、ルビジウム、およびその他の軽希土類元素が豊富であることを示しています。かつては岩石中に存在していたクロムとニッケルは、現在は枯渇しています。
緑島(リュイタオ)の名前の起源については
興味深い歴史があります。もともとこの島には先住民のアミ族が住んでいたため、サンナサイと名付けられました。その後、19世紀と20世紀には、緑島はサマーサナやサマサンナという名前でも知られていました。マンダリンの発音のピンインのローマ字化では、LüdaoまたはLü Daoとして知られています。ウェード・ジャイルズのローマ字化ではル・タオと名付けられ、福建語の発音ではレクトーとして知られていました。1949年以前は、中国人はこの島を「火焼(フェオショウ)」と呼んでいました。 緑島(リュイタオ)という名前は、1949年8月1日に、当時の台東行政官であった黃式鴻(フゥァン-シホン)の命令により、中華民国によって正式に採用されました。元来は「火焼島」と称されていたが、これから「緑島」と改称されたのです。緑島(リュイタオ)の書き方は「綠島」であり、「緑」と「島」の意味がその字面通りになっています。現在は、海外観光客もよく「グリーンアイランド」と呼び、理解しやすい名前として広く知られています。
白色テロ時代
戦後は、1949年に台湾国民政府による白色テロと呼ばれる恐怖政治が行われ、戒厳令が緑島にも敷かれました。緑島は政治犯の収容を目的とした教育施設と監獄が設置され、一般市民の渡航は制限されました。そのうちの一つは、思想改造と再教育を目的とした「新生訓導処」で、1951年から1965年まで存在していました。1980年に戒厳令が解除されると、台湾全体で観光ブームが起こり、緑島への観光客も増加しました。それにより、観光業を中心にした発展が進み、現在に至っています。緑島の人権文化園区には、新生訓導処と緑州山荘国防部緑島感訓監獄を含む区域が整備され、2003年に「人権記念公園」が設置されました。